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2021/01/26

江戸城って・・・。

英揮ブログ

EIKIの鮎美です。



我が家のエースは歴史好きで戦国武将に興味があるようです。

好きな戦国武将は武田信玄と言っていたか、
はたまた信玄餅が好きだったか。

悲しいことにコロナ禍において学校の部活動等が緊急事態宣言中は活動停止。

なかなか退屈な毎日を過ごし学校から帰るとランニングや縄跳びをしているようです。

コロナ感染拡大防止とはいえ子供達にはちょっとつらい毎日ですね。

とはいえ子供たちに悶々とした毎日を過ごさせることもナンセンスなので
今できることを探す手伝いを考えてあげることも良いかと思います。


ということで要望に応え城の探訪を目論むことに致しました。

近場と言えば小田原城、
松本城でしょうか。

諏訪湖の湖面に聳え立つ諏訪城も玄人好みしそうです。

書店に行くと城の雑誌や本も多数ありました。

しかし、東京近郊の城はというと軒並み城跡となっており、
当時の建物を探すことを楽しみにしています。


では、


Q、「江戸城ってどこにあるの?」

江戸城自体は有名ですが現存しているのか、見たことも、、、。



A、江戸城は現在の皇居一帯にありました。東京です。


西の丸や山里丸などが皇居として使用され、
本丸、二の丸、三の丸の一部が皇居東御苑として一般公開されています。

そのほか北の丸公園になっている北の丸や大手前などを含めた
おおよそ現在の内堀通りで囲まれたエリアが「内郭」と呼ばれる江戸城の中心部にあたります。

これだけでも広大ですが、さらに外側は「外郭」で囲まれます。

江戸城の大きな特徴は天下普請※(てんかぶしん)によって築かれた城であること。
(※江戸幕府が全国の諸大名に命令し行わせた土木工事のこと)

徳川将軍が在城した江戸幕府の本城だったこと。

東御苑は無料で入ることが出来、散策出来ます。

大手門、北桔橋門、平川門から自由に出入り出来、
主要なところを掻い摘んで見るならば2時間程度は要しますが大手門から入り3つの城門を抜けて本丸へ向かい、
天守台を見るのがおススメのようです。

本丸御殿が建っていた本丸跡のいまは芝生広場になっています。

参勤交代で江戸城を訪れた諸大名が将軍と謁見をしたのも、
女の熾烈な戦いが繰り広げられた大奥もこの本丸御殿。

初代将軍の徳川家康が上げた初代天守。東照宮が思い浮かびますね。

そして3代目天守家光の築いた寛永天守はとても巨大だったようで、

兵庫にある姫路城の天守をもはるかに凌ぐ巨大な天守だったようで
今となっては現存が見たかったと大人の私自身が思います。

ふと思い出しましたが、
当社埼玉事業所の馨さんが好きな城は姫路城だそうで。

幼少期にご両親と訪れたことがあるそうでまた行ってみたいそうです。

 

Q、で江戸城は現存するの?


A、ありません!


1657年に江戸中に広がった大火事によって江戸城天守閣は焼き崩れてしまったそうです。


皇居がかつて徳川将軍家の政庁かつ住居だった江戸城跡であることを知っていましたか?

皇居が江戸城だったことをご存知でも「なぜ江戸城が天皇の住居になったのか」、
「いつから皇居と呼ばれているのか」といった点は知らないという方も多いかと思います。


京都御所が天皇の住居となる可能性が多かったなか、
〠で有名な前島密が江戸遷都論を主張し新時代に北海道(文面は蝦夷と記してありました)の開発は不可欠で
江戸のほうが近いことや江戸湾や横須賀など良港があること、
関西圏より江戸のほうが広く都市開発をしやすいこと、
理由のひとつとして江戸にある大名屋敷や官庁をそのまま政府の役所に利用することができ、
江戸城を皇居にあてがうことができるという点も主張したところから始まっているようです。

江戸を首都にすれば今ある建物をそのまま再利用できる。

天皇の住まいはこれまでの最高権力者が住んでいた江戸城にすればいい。

という考えから江戸城のあとに皇居が出来たようです。

実際には諸説あると思いますがこれは私の認識というところに留めてください。

政府も財政不足だったので新たな都市開発をする余裕ななかったようですね。

 

Q、では天皇の住居が江戸城西の丸になったのはなぜか?

A、明治天皇が江戸城に入城したのは江戸という呼称から東京と改称された年。


ただその時点では江戸城が皇居になると発表されたわけではなかったといいます。


東京を首都に据えることは規定路線だったと推測できますが、
天皇の住まいが京都から東京に変わることを発表したら京都市民の猛反発にあうこと必至。

そのため政府は天皇が地方へ外出する「行幸」という名目にして天皇を江戸城へ迎え入れたという記実が残っています。

最初の行幸の際、天皇はわずか2か月しか江戸城に滞在されず、
翌年に2度目の東京行幸を実行した際に江戸城が天皇の住まい兼政務の場になることを世間に示されました。

このときに「東京城(江戸城)」は「皇城」へと名を変えました。

ちなみに都を移すことを「遷都」と言うそうで、
政府は結局一度も「東京が首都である」とは発表していないそうです。

ふむふむ、なるほどの「京都」⇒「ひがしのみやこ(東京)」ですね。

ただし結論的には、天皇の江戸城入城をもって、
東京に遷都したという事実は変わらないかと自分自身感じました。


横道には反れますが見附という名前がついた場所を見かけます。

江戸方見付跡とか上方見付跡といった石碑が残されていたり地名としては赤坂見附や四谷見附もありますが、
もともと見張りの番兵を置いた軍事施設でした。

江戸城では外堀に沿って多数の見付が配置されていましたのでその名残です。

宿場の入り口にも見付がありました。

江戸側にあるものを江戸見付、京側にあるものを上方見付と呼んでいたそうです。


昭和20年の東京大空襲によって宮殿などの建造物はほぼ全焼してしまうのですが、
戦後は名称が皇城、
宮城から「皇居」と改められまた昭和39年の東京オリンピックを機に北の丸に「武道館」が建てられました。

昭和42年には本丸や二の丸が東御苑として一般公開され現在に至っています。

即位の礼が行われた宮殿や天皇の住居である御所をはじめ、
生物学研究所や宮内庁庁舎が建つ西の丸と吹上は一般には立ち入りできませんが、
正月の一般参賀等の際は一部区画に入ることができ貴重な城跡や豊かな自然に触れることができます。

令和3年の一般参賀はコロナウイルス蔓延で淋しいものでした。


江戸城~皇居は天皇家が住まわれているという点で唯一現役の城であるそうで、

またこれほど紆余曲折の歴史を歩み国民から注目されている城跡は無いようです。

まだ江戸城に行ったことがない人は訪れてみてはいかがでしょうか。

いま流行りのカメラ女子に人気なのが皇居屈指の撮影スポットでもある二重橋。

西の丸大手門は明治以降に皇居の正門となっていますから東京駅から散策がてら。

東京駅から東海道新幹線に乗り発車直後の進行方向右手に見えてくるのが江戸城です。

有楽町駅を通過するあたりまでのビルの隙間に内濠と石垣が見えそうですね。

ちなみに大手とは正面の意味で、
大手門は江戸城の正面玄関にあたります。

東京だけでなく全国に大手町という地名や駅名が存在するのは大手門に面する一帯が大手町と呼ばれるからのようです。

東京駅から皇居寄りの一帯が丸の内と呼ばれるんですよ。

江戸城、皇居、見附や大手町、丸の内という名前を少し理解できたような気になりました。


とは言え史実でしか見えていない江戸城。

散策した際にはもう少し詳しくご紹介したいと思います。

コロナに負けるな!

EIKIの城主?鮎美でした。


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